2011年12月11日日曜日

ケーブルは謎 #4

ケーブルは 思考する
ケーブルのヒアリングテストを始めると内心”困ったな”という思いがある。
それは、”良い悪い”と安易に判断し勝ちであるが、常時は不問としているテーマを避けられないからである。何故”良い” ”良くない”と判断したか?その基準(クライテリア)は何かという事が、より鮮明で直接的な意味を自身に問いかけているからに他ならない。 

例えば、スピーカーやカートリッジであれば、振動系の軽いモノが良い。高能率である程良い。アンプであれば、周波数特性・NFBの有無・真空管か半導体か、などなど・・・
経験やデーター・特性から判断しうる材料があり、だからこそ技術的な目標も明文し目標化することが出来る。

ところが、ケーブルは厄介なのである。
遍く存在するオーディオケーブルで実特性を測定した物はない。ケーブルそのものを測定する事は出来ないからである。(抵抗値、静電容量、耐電圧などは測定できる。) 特性の改善を謳った技術的アドバンテージは、実際は理論値ないしシュミレーションでしかないからである。 

例えば、
”あるシステムでCD-AMP間のケーブルを変えました。 音がクリアーになり細かいニュアンスが聞き取れます。この変化は、ケーブルが齎したものなのか?CD本来の音なのか?機器本来の音なのか”ケーブルの謳う技術的アドバンテージは一体何だろうか? 相性という事になれば、正に迷宮のパズルである。

この意味に於いて、オーディオケーブルは幻想の中にある。尤も、数値に現れない謂わば官能能力を見極め・楽しむ事こそオーディオのもっとも楽しい時間”比較試聴”であり、取分けケーブルの選択はそのエッセンスでもある。”何を以て良しとするのか”と云う問いは、更に”原音”との関係に繫がっているから問題は複雑である。

原音は比較の中に
ケーブルから対象範囲を広げてみる。絶対的に屹立する”原音”と相対的に比較を必然として開発される(ケーブルを含めた)オーディオ機器。
オーディオ機器を開発(ないし選択)する時は、実質は細部の変化を確認して行くという地道な作業であるから、この時に”原音”と云う前提を立てると、実際比較テストは難しい行為となる。何故なら、厳密に”原音”を規定しようとすると、”原音”はマトリョシカのようにフラクタルな構造を形づくり、どの時点の音が”原音”か同定できない。

これは、個人の見解という事ではなく、オーディオを語る上での前提として確認する必要があると思う。量子力学の【ハイゼンベルクの不確定性原理】のように物理現象に人が介在すると、結果が異なってくる。*最近この理論を越えて原子状態を同定できるとした論文が発表されている。

更に、聴くという行為が、耳による物理的感覚であるばかりではなく、個人個人の脳の経験側に依拠しているため、例え同じ音を聴いても”聴こえ方”は異なる事は、脳科学を引っ張り出すまでも無く既に周知の事実だと思う。 

原音忠実を標榜する原音再生派であれ、再生芸術派であれ、同じ作業と過程を経て結論を引き出してくる。”原音比較法”で製作したといっても個人的嗜好のバリエーションでしかない。  

残念な事に”原音”そのものを、技術的にも論理的にも把握することは出来ないのである。

               

フラットで広帯域
加えて、デジタル化に伴う測定技術の簡便さと発達は、音への還元主義的思考が無意識のうちに是とされる。技術は必然的に合理性を要求し、細分化された要素の集合体は、十全たる音の全体を満たす事ができるという考えが、支配的に成っている。

その最たる例が、周波数のフラット志向と広帯域志向である。そもそも、特性がフラットな機器であっても、聴感上でもフラットに聴こえる訳ではないという事を、オーディオファンであればよく経験する事である。ところが設計する段階では、測定器を介して判断する状況も手伝って、より広帯域でフラットな特性を是としてしまい勝ちである。この事はセールストークとしても強い訴求力を持っているのでこの流れを補完してしまう。

必要以上の周波数特性は、歪や発振の原因に為る事もあり、広帯域ゆえにアンプが発振するなんて事もよくある話である。本当に、オーディオケーブルにMHzの性能が必要なのだろうか。

周波数特性は狐に見える影絵のようなモノで、輪郭はあっても狐の本質・生命感はそこには無い。付け加えると、オーディオ機器の開発とオーディオ機器の選択は、比較し取捨選択という道程を経る本質的には同じ行為である。この時、呪詛ともいえるこのマインドセットから逃れることは至難である。

マジック
この前提を踏まえた上で、オーディオ機器が目指す目標は?
死んでいると思った魚を目の前で生き返らせるような、説明不可能で有り得ない”実在を聴かせるマジック”それが、オーディオの技術的な目標であり、到達点であると考えている。

ケーブルの話に戻すと、以前のブログで”ケーブルは古いほど良い”と書かせて頂いた。
この事に関連して金属のエピソードをご紹介したい。
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1970年頃。クレー射撃を趣味とする友人が、万を満たして”最高の銃”を手にすべく、銀座の老舗に銃を注文をした時の事である。要望をひとしきり聞いた店主は、友人を店の裏手に有るストックヤードに連れて行き、赤錆だらけの丸棒の一群を眺め遣りながら、”これが良いと思うがどうか?”と。

サラーリーマンの友人は、必死でかき集めた大金を投入する気持ちが削がれたような気分で、やっと聞き返した。 ”なんで、こんな錆錆びの物を使うんですか?”
店主は何にもこの若造は知らないんだなと云う表情を見せながら説明を始めた。

”この鉄は今から100年以上前のモノで、製鉄して、金属のアバレが無い状態に為るのにこの程度の時間が必要で、銃に尤も大切なブレナイ芯が出来る。 赤茶けて見えるかもしれないが、表面を削るとピカピカの肌が出てくるので心配は無い”。
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金属にとっては100年という月日は一瞬なのだろう。素材を知るという一見簡単にも思える事でも、本質を捉える事は極めて難しい事を示す話ではないだろうか。

ご紹介したビンテージケーブルには”マジック”が潜んでいる。

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